3月11日、ラブミーテンダー


去年の今日は仕事をしていて、その1年後の今日はというと、今週異常なまでに忙しくて帰宅が1時2時だった煽りで疲労困憊で出掛ける事もやめて基本的に家に居て、洗濯はしたものの基本的には机に向かったり昼寝をしたりして過ごしたんだけど、こういう風に過ごせる事も1年前の今日には想像できてなかった様にも思える。放射能が撒き散らされる中ですぐに死んじゃう訳でもなく1年は生き延びた訳だ。1年経っても何をすべきか未だに解らない事だらけで、しかし改めて思うのは流れる月日がもたらす"何となくこれでいいや”が一番悪い事であって、起きた事も忘れてはならないしもっと大事なのは何をすべきかを考え続け実践する事だと思う。何を当たり前の事を言ってやがると思われるだろうけど俺は俺に言い聞かせる。何言ってんだ、偉そうに、世界のど真ん中で。

明日からも忙しい日々なのが解っているので、夜になってからはその為の準備の様な事をしている。といっても仕事をしている訳ではなくて、月〜金が恐らく帰ってきて寝るだけの生活になるので、シャツを並べておいたり机の上の作画道具を汚さない様に避けておいたりハンドソープを補充しておいたりととにかくまあそういう地味極まりない事をして、やがてくる次の週末にすんなり入りやすい様にしている。布団もズレを直して一回敷き直そう。

日常のありがたさ、なんてわざわざ思わない。日常は日常で淡々と続く。淡々と、少しばかり丁寧にしておきたい、忙しい前だからそう思う、それだけの事。

オーマイダーリン、アイラブユー。長生きしてえな。

おまけの1日

今日は閏日との事で日記を書いておこうと思ったもののこれといって書くべき事も思い浮かばず、浮かばぬなら浮かばぬと書けばよいと思い直して更新をすなる。今日の、いや今日に限らんのだがこんな日記等は書く事にのみせいぜい意味があってそれ以上でもそれ以下でもなくて構わんのだ。何もなかった日などないとも思うが書くべき事がない日というのもまた存在する。
2月の最後にして閏日の今日、東京の西のほうは唐突に大雪に見舞われた。いつもは自転車なのだが流石に無理なので駅まで歩き、電車で最寄りまで、そこからバスで出社する。遅れやら何やらでいつもの倍以上かかってやっと到着。今日の空はとても暗く重たい気分を増長させた。別に沈む様な事など何もない、ただ乗り継ぎが面倒だなあと思いながら会社に向かっていただけだった。





ルチャドールになるために
猛練習を積んでいた少年が
トベレデベルサの失敗で短いその命を落としました

哀れに思った神様は少年に
おまけの1日をお与えになりました

おまけの1日、さりとてするべき事も無く何となく陽は暮れて
その夕日を見ながら少年は嗚呼僕の一生こそ、おまけのようなものだったなあ

と、思いました」
(『おまけの1日』/筋肉少女帯

ハッピーアイスクリーム


五角形の事を考えている。
今日は特に何かきっかけがあった訳じゃないんだが自分の中での取っ掛かりの様なものを落っことしてしまった感があって、まあ勤めに出ている以上はそれなりにやらねばならん事だらけなのでいつもどおり過ごした訳だけど、漠然ともやもやした湿気の中にいる様な気分だった。こう書くとまるでナイーヴな感じだが実際のところはアハハと笑いながら日々は過ごさなければならない。身なりはそれなりにしなければならない。言葉使いも気にしなければならない。やらなければならない事は完了して報告までしなければならない。別にそんな事は至極当たり前の事で、特に何年か前に正規雇用になる時にも強く言われて出来る限り努めて守って過ごしているんだけど、そんなに特別な気合いが必要な事でもなく、ただ“ふつう”でいるというだけの事だ。それも含めて金が出ているし、実際色々な場面で色々な事がスムーズに進む、これはユニフォームの様なモノで着ていればそれだけで俺はそういう人になる。ネクタイとは正にそうして首にかけるシンボルではないか。
つまりは日々、突出した部分は引っ込め、足りない部分は引っ張ってでも平らにして、なるべく整った五角形であろうとしている。その有用性は認めた上で、だ。整った五角形でなくて良い場面では、なるべく自然でありたい。すると、やっぱりいびつな五角形になる。その時、ストレッチをした様に全身ボキボキ音がする。多少着れる様になってきたけどやはり押し着せは窮屈だ。
ちょっと話は逸れるんだが、少し前に五角形の喩えをして、自分の好きなものは何処かの角が突出してしまった様な五角形なんだなと書いていて気付いた。憧れの姿。非常に微妙なのでこんなざっくりの例え話で全てを網羅する様な表現は難しいけど、自分が好きなのは、いびつである事を目的にしてしまうのも何か違う。あるべき姿を追求した結果のいびつな五角形。憧れの姿でもある。ただ無謀であるのとも違うのだろう。なんか眠過ぎて何書いてるのか解らなくなってきたな。でもそんな状態の小汚い文章をここに吐き捨てておく。
明日、もう今日か、も早くに出て朝から電話をせねばならないし、色んな面倒に塗れて日銭を稼ぐいつもの整った1日だろう。フォー・セールはそれでいいけど、それだけじゃいけないんだよ。何言ってるか解らんな俺。解らんけどそういう事なんだよ寝る。寝る?寝る!真似するな!真似するな!ハッピーアイスクリーム。2012年2月9日深夜、赤貝

東京散策シリーズ;赤羽編







もう随分長い事東京に住んでいる訳だが、行く場所は自ずと決まっていて、実のところ知らない風景も多い。少しずつ東京散策をしていこうと思っていて、先日は赤羽に行ってきた。何故赤羽かと言えばあまり理由はない。前から何となく行ってみたかっただけ。さて新宿から埼京線に乗り継ぎ、初めて降りる。赤羽といえば中学生の頃から敬愛して止まないピーズの存在があるのだが、ピーズが纏うやさぐれ感や気怠さや諦念は確かにこの町が持っているものかもしれない。寒空の下歩く赤羽から十条にかけての道は、何処もくたびれて色褪せ錆付いていて、それでいてみっしり敷き詰めたかの様な密度で日常が転がっていた。

坂がちな地形らしく、迷路の様に網の目の様に血管の様に細い路地が複雑に絡み合っている。延々と続く住宅街。月並みな表現だが何処か懐かしい感じがした。若干曇り始めて、写真を撮るにはやや難ありな日だったが、あてずっぽに道を選んでぶらぶらするのは楽しかった。やがて何となく十条の商店街に辿り着く。そこには雑多な生活臭が凝縮していて、沢山の人が往来する。駅にして1駅歩いた事になる。そこそこ疲れた。くたびれた埼京線で新宿に戻った。





この散歩をしている途中で、携帯を落とした。途中で気付いて戻ってみたが見つからず、帰宅してから仕事用の携帯でかけてみると、拾ってくれた方が電話に出てくれた。美容院にお勤めの方だそうで、歩いてる途中に美容院なんかあったかなあと思い返しつつ、すぐに宅急便で送っていただける事になった。赤羽の懐に少し触れた様な気分で、とても嬉しい。嬉しいし俺はモノ落とし過ぎ。いい加減にする様に。2012年2月7日深夜、赤貝

線路は続かない

もう何枚か写真を出そうとしたんだけど容量規制に引っかかった。今月はよく出かけたから写真が多いので仕方ない。


韓国からの友人が帰って1日働いて水曜日、有給を取っていた。郷土玩具をちょこちょこ集めているのだけど、中でも鷽という鳥の木彫りが特に気に入っていて、これは鷽替え神事を行なっている神社で手に入る。東京では亀戸天神湯島天神が鷽替え神事で有名なんだけど、これが1月25日しか行われてなくて、何年か前からこの日に休みたいと思っていた。という訳で平日の朝からカメラを持って出掛ける。うとうとしているうちに亀戸に着いた。亀戸天神は初めてだったがなかなか良い所だった。よく晴れた平日の冬の午前、老人に紛れて鷽替えの行列に並びながら、社会との約束を忘れそうになって何だか可笑しみが込み上げてくるのが解った。なかなかそっちに振り切れないのが辛い所でもあり面白い所でもある事は理解しているつもりだけど。


亀戸から上野へ。上野の五條天神社にも鷽があるらしく行ってみるが、既に配布が終わっていた。これは来年だな。しかし上野の厭世観は凄まじい。ここも惑うこと無き都会なのに、上野のそれはネガティビティを凝縮した様な明らかな影を含んでいて、喧騒と活気にあふれる一方、手垢で汚れて疲れた表情を見せる。とても味わい深い街で、俺はこの界隈の雰囲気がとても好きなのだけど、うーんやっぱりそれはストレンジャー視点であってここにどっぷりはいけない気がした。多分行けない気もした。そう思ってるのが良いなという気がした。
不忍池の枯れた蓮。ここもまた東京で一番好きな場所のひとつ。
さてこの週末はといえば大した事はしてなくて、地味に生活をアップデートしたり少し多めに寝て精気を養ったり、そんな感じで過ごした。そういえばずっと使っていた安物の作業椅子が壊れて、新しいものを物色しているのだけど、これだという物が中々見つからない。うーん何だかなあと思いつつも、何から何までスムーズに決まり過ぎても色々とアレなので、吟味の機会を楽しむとする。坐ることを拒絶しないで椅子よ。2012年1月29日深夜、赤貝

ハヴァナイスデー

先日、韓国から友人が来た。アメリカ人なのだが彼等は韓国で英語教師をしていて、去年韓国で泊めてもらった。1月に4日間の休みがあるらしく、東京へ遊びに来てくれた。狭いけどウチに泊まればいいし、土日は東京案内するよ、と慣れない英語でやりとりして、当日。待ち合わせの東京駅へ向かう。携帯の連絡も取りにくいのでどうなるかと思ったが無事会えた。彼等は変わらず陽気で互いを愛していて、東京は生憎の天気でとても寒かったのだけど、あちこち歩きまわりながら交わす言葉が楽しい。俺はあまり英語ができないのだけど、何とか会話になるのは彼等が英語の先生であるからなのだろう。見慣れた様な、未だに慣れてない様な東京の風景。ただ案内しているだけではなくて、改めて色々と感じる事はある。それが何かというと、言葉にできる位明確なものではないんだけど。何かを見て、”考えさせられる”としか言わない事など最悪の思考停止だと思うのだがそれはさておき、彼等と東京を歩きながら思ったのは、やっぱりここはオカシイ場所だという事と、もう少し歩いて景色を知っておきたいかなという事と、俺もまたこの風景の一部だという事。溶け切らない自意識はあっても、東京に住んでいる一匹。そんな事を思いながら、狭い俺の部屋、彼等にベッドを譲ってソファで寝た。年末の忙しい時などにもソファで寝るんだけど、寝心地は悪くないしこれはこれで非日常感があって好きだ。












彼等が帰る朝、仕事に行く俺は一緒に家を出た。暫く振りの積雪。東京でこんなに積もるのは珍しいよ、この数日間はスペシャルデイズだったよ、と話した。中央線で先に降りて、また会おうと言って手を降った。職場に着くと、雪の遅延で来れている人は少なかった。昼休みに会社の前の公園に雪達磨の写真を撮りにいった。朝から少し曇っていて、彼等は無事に帰れただろうかと思ったり、まあそれは心配という事ではなくてただそう思ったんだけど、家に帰ってPCみたら無事に着いたと連絡があって、何日かぶりにベッドで寝た。
Linger on, your pale blue eyes.2012年1月29日深夜、赤貝

歩く速度の風景


今週もあたふたと忙しみの中で埋没して、何とか辿り着いた金曜の夜。これを50何回か繰り返すと1年がまた過ぎてしまう。
時々思う事なんだけど、生まれ変わるとか過去に戻れたらとか、そこまで飛んでなくても面子が変わればなあとか、仕事とか環境を変えてとかいう事に関してずっと疑念がある。本当にそれしかないというところまで煮詰まらない限りは、なるべく現在位置で掘り下げる様にずっと考えてきた。それは、結局生まれ変わろうが何処の時点に戻ろうが、環境が変わろうが面子が変わろうが俺は俺でしかなくて、きっと同じ事を繰り返すと思っているからだ。単にネガティブな意味ではなくて、今ある事への掘り下げもろくにしないで、上手くいかないのをリセットしようとする事がどうしても愚かな逃避行為にしか思えない。リセットが必要な時があるのは確かだけど、過去の自分の価値観まで否定する様な事を、俺はなるべくしたくない。あくまで自分に向けた考え方だけど、今目の前にある事をどうしていくかをいつも考えているし、ずっと穴を掘り続けている気持ちでいる。安直な答えを持つ気もないが、答えを出す事を安直に放棄したくもない。
世の中には頭の悪い奴がいるもんで、こんな事を考えているのも曲解され、何なら糾弾されたりすらするのだけど、俺は俺以外をどうこうしようなんて思わないし、そもそも興味がないし、全く溜息しかない。裸足で糞を踏んで欲しい。
その穴は毎日少しずつ掘り続けて、すっかり形も整ってきた。今更覗き見しようたって、この穴は温度もあるし燃料も出るし、真っ暗な様でいてよく見るといろいろなものが漂っていてそれを目で追うのは面白いし、外からの音は届かないから鼓膜の疲れをとる事も出来る。とても大事なものだから見せる気はない。ほらもう何言ってるか解らないでしょう。また拡げたくなってきちゃった。2012年1月20日深夜、赤貝