ワンダーフォーゲル


渡り鳥の様に何食わぬ顔で飛び続ける。
心的に多少辛い事があっても、俺は日常を潰してゆけるし、人に会えばそれなりに笑ってられるし、机に向かってやたら細かく手を動かしたり、電池が切れた様に眠りこけたり、こうして愚にもつかない駄文を連ねたり、反動のように遠くまで旅をしたり、時に優しい体温に少しだけ甘えさせて貰ったり、逢えて出来かけた瘡蓋を引っぺがして痛みを再確認したりと、己のギスギスをいなす手段は既に弁えつつある。俺、ほぼ無害。嫌な大人になっちまったもんだ。
アイスタンダローン。しかしそれが強さかといえば違う気がしている。痛みを受ける度に、自己防衛機能として、痛覚をどんどん弱めている。このままどんどん不感症になって、俺は何にも触れず近づかず心動かされず、何処へも心を置かず渡さず触れさせず、何が刺さっても痛みも感じなければ死にもしない、不出来な石仏の様にただ朽ちるのを待つ様な人生を送らんとしている。確かに、そんな姿に憧れが無い訳ではない。楽だろうな、と思う。それが悟りの境地なら、確かにこの世のあらゆる不安や苦難から解脱した状態だろう。
まったくファック。
悟りなど啓くものか。この痛みを感じなくなったら終わりだと思っている。感じているうちは、まだ俺にも心があると思っている。いつか、とか、もうとっくに祈り飽きたけど、ひとつでいいから本当の事を掴める様に、日々毎晩憂鬱に溺れながら、それでも夜明けを待っている。朝が来たら、眩しいだろう、鬱陶しいだろう、眠くて仕方ないだろう、すぐに歩き疲れるだろう、やがて腹も減るだろう、大事にしてた時計をなくすこともあるだろう、買ったばかりのカメラを壊してしまったりもするだろう、夜の闇が恋しくなるだろう。それでも何とか苦笑いくらいで、この先の見えない日々は進んでゆくのだろう。器用に定規で真っ直ぐ正確な線を引くことは俺には出来ない。しかしぶれる手でペンを持つことくらいは、まだ出来る。せめて誠実さをフリーハンドに込めて。それが解っただけで、多分俺は大丈夫。何だか悔しい気すらするが、そういう事なんだろう。俺ぐらいが大丈夫なら、俺の愛する様々な人々なんか、まったく大丈夫な筈だ。問題ない、訳じゃない。問題は山積だ。今日も何処からほどいてよいか解らないこんがらがった毛糸の玉と格闘している。ほらもう何言ってるか解らないでしょう。沢山の憂鬱どもに感謝してやる、二度と俺の前に現れんな。俺は新たな憂鬱へ進む。これからも痛みを感じ続ける。痛みと、温もりを。それは大事に思う事からしか感じたくないし、大事に思う事から感じたい。

何か脳味噌の端っこの方にこびり着いた滓の様な文章だが読み返さないで寝る。何故君はいつでもそんなに輝いてるの。赤貝