20110311

この度の地震の罹災に遭われた方々に、心よりお見舞い申し上げます。
今より超えなければならない苦難が少しでも小さいものであります様、お祈り致します。
私個人は誠に幸運な事に、身体・住居ともに被害は無く、今分かる範囲で家族・知人も無事が確認出来ている状況です。ひとまずご報告致します。





2011年3月11日。その日は朝イチで対応しておいた方がいい案件があり早々に出社。幾つかの面倒をこなしたり進捗を確認したり、いつも通りの業務。午前の終わりに人事と面接。これから先の話をして不安と希望を綯い交ぜにしながら、昼休み。会社の前のコンビニで簡単に済ませる。席に戻ってiPodで何かしらを聴きながらうとうと。午後の業務はやがて始まり、その日中にやらなければならない事に手が出せないまま、突発的に発生する細々を潰しながら時間は過ぎる。何一つ代わり映えのしない普通の日常。
自分の務める会社は医療診断装置の製造販売。簡単に言うとCTとかMRIとかを、病院に売るのが生業。自分の担当は東北エリアで、エリア各地の営業の情報や受注を元に、海外自社から物品を用意し、しかるべき日時に搬入手配をしたり、それに伴い売上予測を立て売上処理を実行する業務。ポジションの意義としては売上予測計上の部分が大きく、常にエリアとは情報交換をしている。この日も午後、何度か福島と青森の技術担当と電話で話した。東北の営業達はこの日支社会議で、仙台に集っていた。自分も支社会議には基本参加していたが、今回は特にトピックもなく4月次に見送って、本社での通常業務としていた。
2時半を回った辺りだったか、揺れを感じた。オフィスの天井にあるアクリルのパーティションが揺れる。ああ、地震だ、何て言いつつもほとんどの人間はそのまま個々の席でPCに向かったまま、長いね、なんて会話をした。やがて、揺れが収まらないのと大きくなって来たのとで、自分の災害用のヘルメットを被りデスクの下に潜り込んだ。隣の席の同僚と、怖いと話す。一旦少し揺れが収まったところで、PCで地震情報を見てみると、宮城北部震度7、とあった。これって相当大きいんじゃないの、東北の人達大丈夫かなあ、と、この時はさして緊張感もなく、一応の確認くらいの気持ちで、仙台の東北支社に電話。かからない。ああ、混乱させない為に規制がかかってるんだな、と思いつつ、その間も複数回、大きい揺れを感じる。社内アナウンスで、社内待機、ヘルメットを着用して机の下へ、と、揺れがある度に何度か同じ内容。そこからどのくらいそれを繰り返したのか、救護担当をリーダーに社外退避の放送が入り、救護班の点呼のあと、会社の前にある公園へ。2000人くらいいる会社の人間が全員避難。揺れは断続的に続いていたが、混乱もなく皆部署ごとに順々に避難した。外はうす曇りで寒く、大した緊張感もないままに、公園で暫く待機となった。その間、会社としては対策本部が緊急設置され、自衛隊救護班の指導を得たりしていたらしい。
30分程度経ったか、社内に戻る。いくつかの天井がズレて、白いコンクリの粉が床に落ちていた。ファシリティ部の人が自衛隊の方と一緒に社内の状況を確認して廻って、クーラーが天井から抜けた場所の下に人が入れないように机をおいたり、上階の水道管が割れたのを止水したりしていたが、社内の人間に大きな混乱はなく、皆冷静に行動していた。やがて、帰れる人は上司に報告の上で帰宅、という指示が出る。ただし都内の電車は全て止まっており、みだりな徒歩帰宅は行政指導で避ける様に話があったらしく、自転車もしくは徒歩通勤をしている者が対象となった。自分は自転車通勤のため帰ろうと思えば出来たのだが、しかし本部署の東北エリアの責任担当であり(勿論安否確認が自分の責務ではないが)、目先の事だけに限定しても週末から来週頭の搬入をどうするのかは決めなければならなかった。しかし依然電話は通じず、ふと、相手先の東北営業達だけでなく自分の会社携帯もプライベート携帯も席電話も使えないことに気づく。オフィスの真ん中にある大きな廊下にプロジェクタが設置され、被害状況を伝えるニュース映像が流される事になった。そこで、初めて事の重大さを知る。倒壊した家屋、発生した火災。ヘリで空撮した映像で、海に真っ白な津波の帯が、どんどん陸地に迫っているのを見た時、身震いする程の恐怖を覚えた。自分の携帯も繋がりにくい状況だったが、実家とその場ですぐに頭に浮かんだ知人にはメールをした(どうやらそれが届いたのは随分後だった様だが)。東京八王子の震度が5だとも知った。5であれだけ揺れの恐ろしさがあったのだから、東北地方の事を思い遣ると気が遠くなった。
やがて日没。JRはこの日は運行を休止することが知らされ、帰宅出来ない者は社内に留まる事が、保全上の理由でアナウンスされる。自分は自転車なので、東北の方々と幾つか確認が取れ次第帰宅します、と報告。プロジェクタには仙台市の悲惨な状況も映しだされ、試写会議に集まられた皆さんの安否を思った。福島の営業所にいたサービスの方から、PCにメールが入る。ネットは生きているらしく、しかし仙台盛岡青森とは連絡がまだつかない、との事。こちらに出来る事がないか、暫く考えるが、取り急ぎ東北支社の全員に、自分が席に待機しておりPCメールが見られる事を伝える。
20時近くだったか、秋田の営業に電話が繋がる。彼も仙台の試写会議に参加していたのだが、車で秋田に戻っているところだった。その時点で、少なくとも仙台支社に居合わせた人間は全員無事だと確認できた。事務所は天井から棚から全てが崩壊して、誰も大きな怪我をしなかったのが奇蹟のようだった、と彼は話した。会議で偶然全員同じ場所にいたのは、不幸中の幸いだと思った。被災後、支社長指示で解散、業務再開は指示があるまでせず、各自ご家族の安全を最優先に、其々の県域に戻る事になっていたらしい。高速は閉鎖され、どの街も停電で真っ暗で、かなり崩壊している場所も多い、と彼は言った。非常に大変な状況ですが、まずはご無事で良かったです、ご自宅に戻られてもどうか気を付けてください、ご家族の方もご無事であります様に、と伝え、短い電話を切った。
そこからもう2、3回、何人かの営業から連絡を頂いた。週末に山形で予定していた搬入は延期となった。その時点で、その日のうちに確認しなければならない最低限の事だけは完了したと判断し、上司の命令に従って帰宅。翌日の土曜日は念の為自宅待機として、会社のPCを持って帰る。会社のPCと、ヘルメットを。
帰宅。いつになく寒い夜だった。途中、八王子ではガスの事故で火事があった様だがそれ以外に目立った被害はなく、店なども普通に営業していたが、寄ったコンビニから弁当だけでなくパンやカップラーメンが消え去っていた。自分の部屋はやたらモノが多いのと熱帯魚の水槽があるので心配があったが、幸い目立った被害はなく、本とケースの中のプラモデルが倒れてたのと、机の上の細かいものが床に散らばっていた程度だった。うまく言えないが何だか申し訳ない気持ちがした。youtubeで被災状況を流していて、テレビが無い我が家でも情報が得られたが、その画面は非常に不安になるものばかりだった。携帯は未だ繋がらないみたいだったが、メールを送った。どうか無事でいて欲しい。明日がちゃんと来て欲しい。こんな事を思う日が来るなんて。正直心の奥底では落ち着かない気分だったが、服を着替えて会社のPCを開くと、盛岡青森秋田のサービスステーションの人間は無事だと連絡があり、少しほっとした。あとは冷静にあるべく静かに過ごした。実家に電話。何度か目で繋がった。とりあえず無事を伝える。まさかとは思うが浜松も津波の恐れがあるから気をつけて、と告げて電話を切った。またPCを見る。やめてしまったがツイッターはこういう時の為にやっておいてもよいかも知れない、と少し思った。
2011年3月12日。日付を跨ぐ。なかなか寝付けなかったが、夜半過ぎに浅い眠りに落ちた。寝る寸前、またメールをした。届いてるかも解らないメール。明け方くらいに、携帯のバイブが連続で揺れて起きた。どうやら繋がる様になったらしい。あちこちから安否を気遣うメールが入っていた。大丈夫、と順次返信したが、それもまた届いたり届かなかったりの様だった。
明けた朝、念の為にもう一度実家に電話。会社のPCを見るも、待機だけで特に大きな緊急対応はない様子。起き上がって普通の休日の朝の様に、洗濯機を回して掃除機を掛ける。地震で倒れた物を並べ直して、現実感がうまく収まらない昨日の出来事を頭の中で整頓しようとしたが、うまくいかなかった。ずっと冷静でいるのはそういう事もあると思う。スーパーに出かけると、大きい混乱ではないもののいつもより沢山の客がいて、保存のききそうな食料が買い占められていた。基本的に自宅待機だし、家に戻る。大阪から電話があり、スカイプで話す。大阪も揺れたらしい。昨日起こった事と思った事を話しながら、自分も八王子市も無事だという事を伝えた。
その後もいくつか、携帯にメールを貰った。中には自分なんかより遥かに大変な目にあった人もいた。自分に出来る事は何だろうか考えた。何が出来るかは解らないが、何かあったら、何もなくても。言葉すらまとまらない自分が実に馬鹿に思えた。この日の事はまとまらなくてもいい、思い出す限りの事を書いておこうと思った。





どうか無事で。早くまた、くだらなく笑えるすばらしい日々がきます様に。